ユーリー・ノルシュテインの仕事

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「痛みについて」

いまやソビエトのアニメ作家・ノルシュテイン氏の名前を知らぬ人は少ないだろう。世界のアニメーション界の最高峰のひとりとして、人々の耳目はこの寡作の作家の言動にいつも向いている。ここに掲載したインタビューは1989年6月に開催されたアヌシー映画祭で配布されたパンフレットの翻訳。常に芸術としてのアニメーションを追求するノルシュテイン監督の本質の一断片を見ることができるだろう。

(尚、翻訳は露語→英語→日本語と数度に亘っていることと翻訳能力の問題で言葉そのものが明確でないことをお詫びします。また翻訳は意訳をさけできるだけ原文[英文]に忠実に直訳の形をとりました。)<翻訳・才谷遼・編集部>


 ノルシュテイン氏は、地球を渡り歩くアニメーターの国際的な一群には、残念なことに属していない。しかし、結論としていうならば今年の「今日のアニメーション」に訪れた人々は、特別で例外的な運命のあるいはソビエト政治官僚の大変な好意を楽しむことができるだろう。
 1989年は、この現代アニメーションの著明な創作者・芸術家が、フェスティバルを訪れることのできる初めての年である。以下の会話は、ノルシュテイン氏がビアンコ・スタジオの招待客として2日間ハンガリーに滞在した1月16日に行われたものである。

ノルシュテイン:私は、1973年から監督として働いています。始めに、イワノフ・ワノー氏と「ケルジェネツの戦い」('71)を作りました。我々は共同監督としてこの作品を作りましたが、誰も私の名前のことはいいませんでした。
 私の最初の単独作品「狐とうさぎ」は1973年に製作、翌年ザグレブで最優秀作品賞を受賞しました。次に「あおさぎと鶴」('74)を完成させ、これは私の知る限り世界中の国際映画祭で10の賞を受賞しました。1975年完成の「霧の中のハリネズミ」も、おおよそ10の賞をいただくという栄誉に輝きました。「話の話」は1979年に作られ、この作品も本当にたくさんの賞をいただきました。------しかし、それでも私は、私の作品が上映される映画祭に参加する機会を得ることができませんでした。
 実際のところ、「話の話」がロサンゼルス映画祭で、「今までに作られた中で最高のアニメーション」と宣言されたことも、公式にはその後2年も経って私に伝えられたという現状です。招待の知らせさえ、一般的に遅れて届きます。1981年、オーバーハウゼンで審査員として招待された時、ようやく私は国を出ることができたのです。私の作品を見てくれた人々が、作者に会いたがっているという話は以前より聞かされていました。この状況はしかし我が国の対外政策の慣習からいって当然なものでした。祖国と強くさらに影響的な関係にあるのは、各映画祭を旅する招待作品の作家ではなく、人々なのです。
 それはともかく、私は過去の4作品以上にもっと多くの作品を作ることができますが、一年ごとに作る行為で私のエネルギーを浪費したくないのです。

質問:前回のアヌシーで、あなたの弟子たちが非常に高い評価を受けました。あなたの祖国ソビエトで、若い世代に、あなたの影響力がそんなにも顕著であったことに大変驚いたのですが---

ノルシュテイン:私は1979年より教鞭を執り始めました。ソビエト連邦映画芸術コスキノ州立委員会で、ふたつの二年制卒業後の特別コースを指導しています。私は生徒たちに、映画製作のノウハウではなく、私の意見、この世には映画やアニメーション製作以外に大変重要なものがあることを教えたいのです。彼らが、その重要なことを学んでくれることを願っています。彼らはアニメーションの特別な可能性を自分自身に言い聞かせることも必要ですが、映画は「生命」に比較したら単に2番目に重要なことだと理解するべきなのです。しかしそれは同時にあらゆる芸術において言える、と私は思います。「内なるものの完全なる状態を保つこと---Saving your inner integnity」が一番重要なことだと思います。

質問:今日、作品は、殆どイデオロギーの一断片として表われます。これは芸術家の個人的なイデオロギーではなく、政治戦略の圧迫(社会主義)という意味でですが。

ノルシュテイン:作品というものが一種の応用された行為(applied activity)であることを人々が理解するまでは、イデオロギー的形態をとらなければならないことを恐れています。しかし作品は、現実の、現実に存在することを応用したものではなく、もっと高い、昂揚された本源を持つものです。現在、残念なことに作品は、生からの、一種の逃亡の道具となり果てています。
 我々は、生の、いろんな出来事を恐れています。
 例えば、我々は死に対する疑問ということに関して、直接の関係(手がかり)を失っています。我々は、面と向かって死に対峙する宗教的な人々の持つ簡潔性を、もはや持つことはできません。私の意見として、死とフ関連性は、多くの生命と芸術の問題を測るために有効だということです。

質問:その点が我々のロシア文化の価値判断を難しくしていると思います。ロシアの人々と我々は、宗教では絶対的な違いのもとで暮らしています。トルストイ、あるいはタルコフスキー、ソルジェニツィンですら、欧州の人々をしばしば苛立たせますが、それは彼らだけが持っていて、世界の他の人が知らない一種の秘密に対して、彼らが祈り続けているからではないですか?

ノルシュテイン:その秘密の名前は「痛み」です。ロシア文化の中心で起きているものごとは、フロイトがいうところの、痛みと経験による「魂を病ませるもの」に相当すると思われます。我々は魂を病ませるものの代わりに別のものを見て暮すべきです。
 今日、本当に幸福を感じることのできるのは、誰でしょうか?
 そう、子供たち。そして、多分人生の殆どを使い果たした年老いた人々。
 しかし、では、人生の中途にいる人たちはどうなのでしょう。彼らの方法での幸福への道筋は、非常に限られており、わずかなものでしかありません。
 作品は、殆ど彼らの「シェルター(逃亡の手段・道具)」と化しています。そこがロシアの作品が他と違う点です。ロシアの作品は、シェルターとして奉仕したことはかつてなかったし、いつも人々をものごとの解決へ強く引き出す役割を果たしてきたというのに。現在作られる映画の多くが、シェルターとしての役割を担っているのは、残念なことです。
 私の次の作品「外套 overcoat」は、人々の心に「恥」というものの深い感覚を持って欲しいと願って作ったものです。彼らの生き方を考える時に感じる「恥」。

質問:私は作品がその使命を失っているとは思いませんが、次第に孤立していくのを感じます。

ノルシュテイン:私の作品が人々に届くか否かということに影響されたことはありません。そんなことは、どうでもいいのです。
 何を為すべきか?
 我々は、生命体として又、社会的存在としての機能を働かせるべく生活を整えねばなりません。人間とは奇妙な生き物です。

 さて、私が世界の上空で、巨大な鉄の塊・ボールを持ち上げているところを、想像して下さい。人々は朝目覚めて窓をあけ、何を真先に見るでしょうか?鉄の塊。人々はまず恐怖を感じ、瞬時に逃げ出そうとするでしょう。次に、頭上の奇妙な新しいものを見つめ直し、この変なものは何だろうかと不思議がるでしょう。しばらくするとそれが存在することに慣れ、その上に広告すら貼るようになるでしょう。頭上から巨大な鉄の塊が落ちてくる時のことなど、想像もせず、理解することすら、できないでしょう。
 人々は、魂の中に、その全ての疑問と答えを持たねばならないのです。
 そして作品の特別の使命は、人々をその方向へ導くために刺激を与えることなのです。

 私は最近、天文学者スコルボフスキーの本を読みました。その中で彼は、アンドレイ・サハロフ博士と初めて会った時のことを書いています。彼はサハロフ博士に「あなたの行動で、何かを変えることが出来ると本当に信じていますか?」と尋ね、サハロフ博士は「ノー」と応えました。「信じていないなら、なぜ行動するのですか?」「それは、私は他の方法では生きられないからです」---その通りです。各々の作家が、この問題を解くために為し得ることは、これにつきるのです。

インタビュアー/イストヴァン・アントル(ブダペスト)
訳/才谷遼


日本語版掲載:『コミックボックス』1989年10月号(Vol.66)
(再録:『ユーリ・ノルシュテインの仕事』2000年8月)