■映像詩人ユーリー・ノルシュテイン
ノルシュテインフィルモグラフィおかだえみこOkada EMIKO The CompleteWorks ofYURI NORSHTEIN |
ノルシュテイン・アニメはふしぎだ。何度みても新鮮で、何度見ても新しい発見がある。それほど表現が深く、微妙な味わいが楽しめる。また観る者が年齢を重ね、変化するにつれて、違う表情が見えて来るのだろう。
Norshtein's animation is amazing : No matter how many times you see it, it is always fresh and there is something new to discover in it. The production is so deep and so subtle that the viewer will find new visions every time he watches it, no matter how often, or over how many years. |
(68年)
The 25th-The first Day of the Revolution /1968
■12分/カラー
■ノルシュテインがA・テューリン(「ケルジェネツの戦い」の美術・演出)と共同演出で一九一七年十月の革命最初の日(ロシア旧暦による)を描いた最初の監督作品。静かな広場に次第に民衆の怒りが打ち寄せ、抵抗する支配者階級を叩きのめす。かたき役のキャラクターは当時のプロレタリアポスターや出版物に描かれた資本家、貴族、ブルジョアや憲兵など特権階級の漫画・戯画による。美術的にはブラックなど当時の立体派の絵画の調子を取り入れた。民衆のパワーがモノクロ画面に赤い怒涛として疾走する力強い演出、幼な子を抱いた聖母のような女性、などはそのまま「ケルジェネツ」にも使われる表現で興味深い。上層部から手直しを強要されたというのは、おそらくレーニンの肖像だろう。全体のタッチとえらくかけ離れた平凡なレーニンの絵。ラストのデモ行進の実写部分もモノクロ画面の旗だけ赤に着色(鈴木清順好みですね)という演出が斬新だ。
(71年)
The Battle of Kerzhenets / 1971
■12分/カラー
■旧ソビエトのアニメの創始者の一人、「せむしの仔馬」のイワン・イワノフ=ワノーと共同で脚本・演出のカラー・ワイド作品。西暦九八八年、キエフ公国軍が辺境種族と戦い、黒海への出口ケルジェネツ(現在のヘルソン、オデッサの東約一五○キロ)を確保し、国家統一を果たす。ロシアの第一歩、大いなる勝利の話なのだが、武勇や栄光よりは戦場の悲惨さや、残された者の悲しみを強く描く。
「話の話」に現われる主を失った食卓や寂しい灯火がすでに見られる。ゆるやかにうねる煙(実写)の彼方を、さながら漆黒の怒濤となって押し寄せる異民族軍騎馬隊のダイナミズムは「25日・最初の日」のテクニックをさらに高めたもの。キャラクターをイコン(ギリシャ聖教の聖像画)の絵にしたのも効果的。
エイゼンシュテインこそわが師、と言うノルシュテインのモンタージュ理論がよくわかる作品。音楽はリムスキー・コルサコフ。フランチェスカ・ヤルブソバ(奥さん)がこの作品から美術スタッフに参加している。
(73年)
The Fox and the Hare / 1973
■12分/カラー
■小さなわが家をあつかましい牝狐に乗っ取られた兎が泣いている。追い出してやるよ、と乗り出した狼も熊もでっかい牡牛も口ほどになく、みんな狐にひどい目に遭ってギブアップ。最後にやって来た元気なオンドリが大激戦の末、狐を追い払い、家を取り戻した兎といっしょに長い冬を楽しく暮らす。
キャラクターも背景も民芸の刺繍調。素朴な絵だが、切り紙人形のパーツはすでにかなり細かく分けられ、動きはリアリティ十分のこまやかさ、ノルシュテインがはじめて一人で演出した作品で、日本での上映は87年の広島国際アニメフェス(審査員として初来日)でのただ一回のみ。ノルシュテインのとぼけたユーモアのセンスがよく出ているとても楽しいアニメ。だらしのない狼や熊がかわいい。雪に埋もれたわが家のペーチカを焚き、兎はバラライカを弾き、オンドリはパイプたばこをくゆらすラストが暖かい。もう一度35ミリで見たいなあ。
(74年)
Heron and Crane / 1974
■12分/カラー
■野原の古い屋敷跡に住むあおさぎと鶴はお互いが好き。が、命がけの恋というほどでもない。やさしくしては失望し、すげなくしては後悔する恋人たち。気を引き、はずし、からかい、怒り、沈み、なぐさめ、いらだち、振り切り、寂しさに立ちすくみ……お互いの心のタイミングがいつもちょっぴりズレるのだ。恋のゲームは燃え上がりもせず終わりもしないまま、秋の雨が降り出す…。
「大変な作家が出て来ましたよ。まるでチェーホフみたいな」
と川本喜八郎さんが言われたのは、この作品がヨーロッパの映画祭に登場した75年。
チェーホフの芝居は私も大好きだけれど、どんなアニメか想像できない。やっと見られた時、まさにチェーホフだ、と納得した。
「桜の園」「三人姉妹」「かもめ」「ワーニャ伯父さん」などチェーホフの舞台は人気が高い。平凡な人生のありとあらゆる要素が含まれ、淡々と、ほろ苦く展開する、ぶきっちょな人々の切ない物語。
「チェーホフの登場人物たちはみんな、自分に満足できない、他人に満足できない。彼等が幸せになるために、ほんのちょっとのことが足らない……」
とノルシュテイン。見事な解釈だ。その解釈で描く、じれったい恋人たち、鷺と鶴の演技! ノルシュテイン自身、名優なのだ。
「いかに完璧なタイミングで描かれようと、演技のない動画は紙の上の体操にすぎない」
フランク・トーマス(ディズニー・プロ最高のアニメーターの一人)の言葉を思い返す。
野原の彼方ではにぎやかに、狩りのざわめき、バンドのひびき、花火。彼等の存在を知らず、招いてもくれない世界の、祭りの夜空の遠花火……違う世界がそこにあるのに! 鷺と鶴に降りそそぐ雨のつめたさ。飛び散った赤い玉はまるで鬼火のようだった……。
「これがはじめて〈自分の作品〉と呼べる、という気がした映画です」
つまり全面的に自分の好みを生かすことができた、という意味だろう。このアニメがまだピンと来ない人は、もうすこし年をとるまでお待ちなさい。日本語版ちとオーバー。
(75年)
Little Hedgehog in the Fog / 1975
■12分/カラー
■お茶に招かれた小さなハリネズミは、ロシア紅茶に入れるジャムの包みを抱えて、子グマの家へ。日暮れの野原にいつか霧がわき、右も左もわからない。さまようハリネズミは霧の中でさまざまなふしぎに出会う……。
私たちが出会った最初のノルシュテイン作品、おとなにも子供にもわかりやすく、心にしみる詩情と、そこはかとない哀愁。たしかに観客はひととき、ハリネズミと共に霧の中にいた、と心から実感する。
ハリネズミが、こつ、こつと大木を小枝で突いた、その手ごたえは今もあざやかに私の手に残る。枯れ葉の下からざわざわと出現して消えた巨大なカタツムリ……いや、小さなハリネズミから見たればこその巨大さなのだが、私はたしかに息を飲んで、地上20センチの視点からその不気味な怪物を見送った……。
ハリネズミの実物にとうとう、さわってしまった。それは本体と針を別々に描いたセル二枚重ねの、まさしく切り紙、いやカット・アウトのキャラクターだった。足は切りっぱなしの二枚の素材であり、手だけは楕円形の薄いアルミ片六枚を銅線で接続・彩色し、自由に動かせるもの。ノルシュテイン自身がそれをアニメートして見せ、ハリネズミはちょこちょこと絶妙な足どりで歩いてくれた……。
背景も前景もセル。切り抜いたセルの小口を塗るなどの処置がまったくされていないラフさ。全面的マルチ使用で、背景の空はすべて透過光。背景画にキャラクターや前景を密着して重ねるケースはないというものの、セルの小口がほとんど光らないのがふしぎだ。
岡本忠成さんを思い出す。ハリネズミがころげ落ち、黒い魚が浮いて来るあの水の流れを、上映のたびごとに最前列へ行って目を皿のようにして見ていたっけ……今回の講座でその水の種明かしもあったが、「注文の多い料理店」の地下水路の黒い水は、岡本さんがノルシュテインに打ち返したスマッシュだったと、私は思っている。
ノルシュテイン全作品の中でただ一本、となったらやっぱり私はこれを選ぶかな。万人に向く、というのももちろんだけれど。それにしても、霧の表現!
私はある秋、尾瀬の夕暮れ時に、湿原から沸き上がる霧でたちまち自分の足が見えなくなったのに驚いたことがある。見る見る胸まで上がって来る白い幕をかきわけて山小屋へ急ぎながら、私はまざまざとハリネズミの心細さを理解し、ジャム入りのあったかなロシア紅茶を恋しく思った。
たぶんハリネズミをつつんだ霧も、馬にはほんの足もと、犬が平気で駆け回れる程度の、地を這うようなものだったかも。しかしこの類例もない十分間の霧の実感!
映画が終わった時、観客がハリネズミになって霧の中にいた、という記憶が残る、凄い技術の、心やさしいアニメ。アニメ史に輝く小さな宝石。これにくらべりゃバーチャル・リアリティがなんぼのもんじゃ!
(79年)
A Tale of Tales / 1979
■29分/カラー
■「ねんねんよ、ねんねんよ。
ねんねしないと狼が、
お腹くわえて連れてくよ。
ねんねん、ねんねん、ねんねしな」
ロシアの子守唄には狼が出てくるのだ。子守唄に呼び出された狼の子は、自分もおっぱいがほしい幼さ。でもこの廃屋に大勢人がいた時代、タンゴをみんなで踊った時代、男たちが戦争に奪い去られた時代。そんな時代も知っている……
どんな生活が理想だろう。お母さんは洗濯し、子供は遊び、お手伝いし、お父さんは漁に出る。旅人はもてなされ、詩人は詩を書き、道はどこまでも続いている……詩人さん、詩が書けないなら、その紙もらっちゃうよ。でも、紙は狼の子の腕の中で赤ちゃんになってしまった。つまんない。やっぱり狼の子には子守唄しかない。青いリンゴに雪ふりつもり、夜明けの街灯ひとつ、地をとどろかせてSLの煙が過ぎて行く……。
はじめて見た時から、わかるようでわからない。わからないけど気にかかる。ひどくハッキリ呑み込める部分もある。狼の子が焼いて食べるジャガイモの、あつつ、アチアチ、ふっふっふーっ、のあの実感! 自分が焼いていたようなあの熱さ! まざまざそれはわかるのに、悲しいタンゴもわかるのに、だのに、あのかわいいウシはいったいなんなんじゃ。なんでウシが縄とびしとるんじゃ!
高畑勲さんの「話の話」(アニメージュ文庫)はすばらしい本だ。87年のノルシュテイン来日の際、高畑さんがこの本の各章のタイトルを読み上げた。「作品のキーポイントはこれとこれですね、私はそう解釈しました」と、聞いているノルシュテインの目がみるみるまん丸に見開かれ、
「実によく内容を理解してくださった!」
と言った。この瞬間、ノルシュテインは高畑さんを全面的に信じたのだ。二人の間に余計な言葉はもう要らない……感動した。
だから、「話の話」がどうもまだよくわからない、という人は高畑さんの本を読めばいいのだが、年をとることも必要だ。人生の経験が多ければ多いだけ、年を取ったら取っただけ、「話の話」はわかって来る。ただ、例えば、空に舞って女たちの手にとどく字の書かれた紙片はみな戦死公報だ、ということは知っておかなくてはならないし、みんなが踊る「疲れた太陽」というタンゴは大変ポピュラーなもので、ある時代を語るものだ、ということも知っておく方がいい。
昨年封切られたニキータ・ミハルコフ監督の「太陽に灼かれて」のおもしろさはちょっと例がないほどだが、最初のシーン、雪の公園での「疲れた太陽」演奏と主役たちのタンゴ(男は軍服!)は最高だった。ミハルコフもノルシュテインのファンだそうです。
「話の話」もまた、ある時代を語って、消えない星となった。でも、それからもう16年……「外套」の完成を切に祈る。